だいたい、普通の町のピアノ教室に通うと、ツェルニー、ブルグミュラー、ハノン、ソナチネなどをやらされるのですが、私はそれらすべてが全滅状態。「全てが嫌い、肌に合わない」という壊滅的な状態でした。
或る時、どうしても弾く気になれなかった為、楽譜を家に置いてきてしまい、先生に飽きられておりました。もう今ではあんまり覚えておりませんが、よっぽど嫌だったんだと思います。けれど「ツェルニー、ブルグミュラー、ハノン、ソナチネ」の時点で辞める生徒も多いとか。私だけではなかったのね!(安心)
(ここから先は興味がある人だけご覧ください。ちょっと長い話になっております。最後に、とっても気になる良い記事をご紹介しています。それだけ見てみても良いと思います。)
ソナチネは兎も角、「ツェルニー、ブルグミュラー、ハノン」これらの音楽家(?)の方たちは、はっきりいって一流の音楽家とは言えない!?方たちとお見受けいたします。(勝手に、偉そうに語っております、すみません。)
それなりにセンスは一応ある、とは思うけれど(いや、ないかもしれん、いや、あるかもしれん。わかりません)。昔のヨーロッパの、お金持ちのお子様たち向けであり、おぼっちゃまやお嬢ちゃまに教える先生、としては教材としては気楽でいいのかもしれませんが・・・もう今や21世紀。世の中に大量にあふれている刺激的な音楽は、「ツェルニー、ブルグミュラー、ハノン」とは逸脱した世界。
音楽を生業とする人たちだけではなく、趣味として、たしなみとしてピアノを弾いている人が急増して、産業革命を経てからもう100年以上は経っておりますでしょうか?
でも、ピアノだけは相変わらず18~19世紀の価値観の中で埋もれていた「便利材料」としての教材を与え続けております。「教える側」が楽をするための恰好の材料だと思います。
特に、独学の方が「みんながやっているし、有名だから」という理由で楽譜を購入し、取り組んでいることも多いみたいです。「ツェルニー、ブルグミュラー、ハノン」これらはすべて「練習曲」のお題目が掲げられております。ピアノを始める人に、まずは練習曲しか与えない、というこの事実。
世の中にはこんなにも魅力的な音楽があふれているというのに!!!
それをいきなりプレイすることは、レッスンではご法度、「練習曲をやりたくないなら辞めなさい」という現実。「あこがれの曲」迄の、嫌になるくらいの遠い道のり。
最近はいろいろな教授法が編み出されていて、時代の最先端で生きている経験豊富な先生についた人は、もうただラッキーとしかいえません。
けれど多くの人が経験している現実は、練習曲が与えられ、1番から順番にやっていき、「はい、よくできました~」といって丸をもらう。そしてまた次の練習曲へ。
はっきりいってダサいコード進行ばかりのこれらの練習曲は、指に変な筋肉しかつけさせません。今を生きる人にとっては、今の時代の音楽に対する応用が全くきかないものです。
ただ機械的に指だけは動くようになるだけ。小さいころは、普通の庶民としては、右も左も分からないものだから、この相当つまらない練習メニューは、ただただ拷問にしか感じられませんでした。ほんとうに、相当悩んでおりました。・・・が、なぜか辞めなかった自分。これも今の自分にはちょっと不思議です。
そんなに嫌なら辞めればいいじゃん、と大人たちは言います。けれど、違うのです。
つまらない曲たちが嫌いなのであって、ピアノが嫌いなわけではないんです。ここら辺の思いは、そういった練習曲を嫌がらずに続けてこられた先生方は、まったく理解できない世界のようです。
ゲームに例えてみましょう。2~3年の間、ずっと「練習ゲーム」だけをすることが出来ますか?難しいゲームをするにあたって、まずは単純労働的なつまらない練習ゲームをし続ける人はいないと思います。
仕事に例えてみます。2~3年の間は新人だから、ずっと仕事の練習をしていなさい、とばかりに変な単純労働だけを課すことなんてしないと思います。
仕事だって、ゲームだって、実践があってこその研修であり、練習だと思います。
では、音楽の実践とはなんでしょう?ようするに人前で「プレイ」すること、音楽すること、バンドすること、曲つくること、好きな曲を弾くこと、などですね。
人前で練習曲を披露する人はめったにいません。聴かされている方も苦痛なだけです。
ここで、いきなりですが、ショパンのエチュードの話に飛びたいと思います。
ショパンのエチュードは、文字通りエチュードです。しかも、ショパンが自分の弟子たちのために作った練習曲です。ショパンのピアノコンチェルトが弾けるようになるために、との思いが込められております。
なので、ショパンのエチュードとはいえ、やっぱり練習曲なのです。目的ではなく、手段です。
けれど、いまや、ショパンのエチュードそのものを完成させるべく、それを目的としたひとがわんさかいらっしゃいます。もちろん、まともに弾けない私がこんなことをいうのはとっても変なのですが。
プロだって、音楽院の教授だって、ショパンのエチュードを弾くのは大変なんだそうです(当たり前か)。いま付いている先生からも、留学先のヨーロッパでの、こういった類の話を良く聴きます。
先生は、日本からヨーロッパにわたって、まずは教授に「何か弾いてみて」と言われたときに、意気込んでショパンのエチュードを弾いたそうです。でも帰ってきた言葉は
「うん。それで?」だったそうです。
「・・・・それで?」といわれても、ただただポカーンとするしかありません。実際、向こうでは、もうそういった難しい曲を弾ける技術をもっているからといっても、さして珍しいことでもなく、「だから何なんだ?」という感想をもたれるとか、もたれないとか、どうなんだか・・・?
そういう留学ショックの話を聞くと、もはやピアノ業界も、相当飽和状態にあって、「手が動きます」というだけでは「ふーん、それで?」な世界になってきております。
やっぱり、音楽の世界は、自分の演奏ができてなんぼ、作曲ができてなんぼ、の世界なんだなぁ、と思います。
けれど、思うように指が動かないこの現実。理想と現実の間でもがいたあげく、やっぱり練習曲という産物に頼ることになるのですね。
でもつまらないから続かないのも現実です。やっぱり人間だから、無意味的な、機械的な単純労働を延々と続けることは不可能なのです。
それでも、ショパンのエチュードは、曲として楽しめる芸術性が高く、同時に難しいからこそ、弾くことによって、その過程の中で、技術力をupさせる魔法の力があると思います。
だから、長い間、普通に弾きたい曲を使って「練習曲」のように利用して弾いてきましたが、やっと重い腰を挙げて、弾けもしないくせに、「取り組んでみよう」という気になりました。
長いピアノ人生の中で初の試みです。
そうなったきっかけは、やっぱり先生の一言でした。「完成させなくてもいいんだよ?全部を弾かなくてもいい、部分だけでもいい。特にショパンのエチュードは、向こうの偉い教授だって、難しいからって弾きたがらないんだから!ただ、苦手だなと思う、弾けないと思うところをさらえばいい」このセリフが効いたのか、やっと自分の中で納得しました。
でも、弾いてて思います。「やっぱりこりゃ相当な拷問だよ!」って・・・。
完成させるのは一生無理かもしれないけど、「取り組むその過程が大事だから、完成させなくてもいい」という先生の言葉は、いつまでも私の心に響くものでございました。
「革命の左手だけをガンガン弾いてみる」企画も、「弾けないから」こそ異議がある!楽に弾けるんなら、既に弾く必要もないから!!
みなさんは、エチュードが好きですか?もし、練習曲は嫌いだし、苦手だな、と思うなら、先生の言葉を私からも差し上げたいと思います。
「弾けないからこそ、弾くんであって、弾けるなら弾かなくてもいい。完成させなくてもいい。苦手なところだけをやればいい。嫌ならやらなくたっていい。人に聴かせるわけじゃないんだから、もっと気楽にやればいい。どんどん曲を弾けばいい。下手だっていい。審査されるわけじゃないんだから。好きでわざわざやっているんだから、楽しめなくちゃ、損、損!」せっかくの楽しい世界。ピアノは、始める人も多いけど、途中で辞める人もすごく多い楽器。理由は「練習(または練習曲)が苦痛だから」
けれど、ピアノのレッスンという世界が、もっともっと今の時代にふさわしいものになって、少しでも、拷問ではなく「とっても楽しくて仕方ない世界」になりますように!
「なんとかかんとか練習曲を何番までやりました」うん・・・だから何!?「先生から丸をもらいました」うん・・・それで?
辛いけど指は動く、楽しいけど指動かない、その2択なら、下手でも楽しい方を選択したほうが勝ちだと思います!ポジティブでありたいですね!
楽しくなれれば、技術なんて黙ってても後からどんどん付いてくる。そう思います。
※注意:スケールやコードの知識などは「練習曲」の話とは関係ありません。
最後に、気になった記事をご紹介。
ピアノを弾く身体http://www.musenet.co.jp/lpo/2.3/2-56.htmlう~ん、なかなか、とってもいい記事だ。「本来どう弾いたっていいはず。」の言葉にに励まされます。
「「きちんと」弾けるようになって、そのあとに身振りを加えたらいい演奏になる、というわけでは絶対にない」最初から演奏は表現であるべきだ、という話に、なるほど、納得!!